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2009年11月27日
交通安全講習会受講 - 「だろう運転」「かも知れない運転」を考える

自動車通勤していると年に 2 回以上出席しないといけない交通安全講習会を今週,久々に受講.3 か月前に 1 時間の講習を受けたばかりの身としては,それも 1 回にカウントして欲しいところなんですが :-(
今回も毎回代わり映えしないプログラムで,警察署からお呼びした交通課長代理様のありがたいお話 (管内の事故状況聞いてもあまり意味ないです... しかも,毎回「今年の」事故状況なもんだから,もう何回も聞いたってのがあるし) の後,ビデオ視聴.まぁ,いつだったかは「前回と同じかよ!」というビデオでしたが,今回のビデオは事故の起き方にフォーカスしていてちょっとばかり警察 24 時系で少しは楽しめましたが.

さて,今回のビデオにも出ていた「だろう運転」「かも知れない運転」という言葉が前から気になっています.キャッチフレーズとしてはいいのですが,元々の日本語の「だろう」「かも知れない」にはそれぞれ
 ・「だろう」=自分勝手な解釈
 ・「かも知れない」=細心の注意を払う
といった意味はもともとないのに,警察がそう決めつけて啓蒙している [1] のがとても気になるのです.

確かに,助動詞「だろう」は,話し手の主観を表すという点では間違いではないのですが,必ずしも (警察が言うように) 自分にとって都合のいい方向にだけ推量するということではない点,また,「かも知れない」は,可能性が低いことを示すときに使われる点において違和感があります.

まず初めに,「だろう」について考えると,

ダロウは,ソウダと違い,現実がそう予想・想像させるだけの性質をそなえていなくても使える。
(菊池, 2000)
仮想の世界での推測に用いることのできるダロウ
(中畠, 1990)
という指摘があるように,目に見える状況や事実の伝聞などによる客観的な根拠に基づかない推量を示すことが確かにあります.また,
いわば最低限に文の「確信」性を否定=限定するような正確を示している。(中略) 少なくとも「確言」ではないという性質を文に付与するという、見ようによっては若干「消極的」なものであると言えよう。
(柏木, 2003)
という性質を持つ言葉でもあり,「だろう」は言及する内容について,客観的な根拠を必要としないこともあって,その真偽の正確性も担保されていないと考えるべきでしょう.従って,「だろう運転」というのは,「自分の都合のいいように状況を解釈して運転すること」につながる可能性はあり,その点は間違っていないのですが,それだけではないのも事実です.

一方,「かも知れない」については,

「かもしれない」の表す<蓋然性>は、確からしさの低い、そうでないこともあるといった含みを有するものであることが分かる。
(仁田, 1981)
「~かもしれない」はその可能性があまり高くないと判断された場合に用いられる。
(野田, 1984)
という指摘が複数あります.従って,忠実に「かも知れない運転」をするとしたら,極めて可能性が低いことも考慮しなければならず,自動車専用のバイパス道路において「迷い込んだ人が歩いているかも知れない」などと考える必要が出て来てしまい,制限速度は今でも十分に高過ぎるということになって [2],交通が機能しなくなったり,「日常点検はきちんとしているが,タイヤが外れるかも知れない」「前を走るミニバンのリアドアが突然開いて,子供が転がり落ちて来るかも知れない」などと考え始めたら,もう運転どころの騒ぎではなく,「かも知れない運転」は非常に現実的ではないように私には響きます.そんなに「かも知れない」と考えたいのなら,クルマに乗るべきではないです.
さらには,
カモシレナイ・ニチガイナイを用いれば、事実、現実の自体が明らかでも、それに無頓着に予測、推測を行なうことが可能になる。したがって、条件の設定自体を荒唐無稽なものにしたり、勝手で無責任な空想、架空の世界を表現したりすることが許される。
(中畠, 1993)
という理由により,「赤信号を無視しても事故は起きないかも知れない」「際どいタイミングではあるけれども,もうちょっとアクセルを踏めば,あの隙間に合流出来るかも知れない」といった「勝手で無責任な空想」が可能になり,「だろう」とまったく変わるところはないのです.

さらに,「だろう」「かも知れない」との対比で言えば,同じく中畠 (1993) によれば,「ラシイ/ヨウダ/ソウダ (伝聞)」は「何らかの確認をしたことについて述べる」のに対し,「カモシレナイ/ニチガイナイ/ダロウ、マイ/ソウダ (様態)」は「未確認のことについて予測・推測する」とし,「だろう」と「かも知れない」は未確認の推量である点で機能的には変わらないことを指摘しています.

以上,「だろう運転」「かも知れない運転」という言葉に対する私の否定的な考えを,日本語学のいくつかの論文を引用しながら述べて来ましたが,日本語学という研究は,日本語のすべてを明らかにしている訳では当然なく,また,非常に残念なことですが,体系的に (網羅的・順番に) 行なわれている訳ではないので,「だろう」と「かも知れない」の使い分けについて既に研究が完了し,真実に到達しているとは限りません [3].実際に,今まで引用した以上の論文より古い寺村 (1974) では,「ダロウ (中略) のバリエーションとして、カモシレナイ、ニチガイナイなどを、まとめてムードの助動詞のうち、「概言的に状況を報道する表現」の助動詞とする」とだけ述べ,「だろう」「かも知れない」の違いに着目しようともしていないことからも判るように,こうした議論がなされているのはせいぜいこの 20 年くらいのようです.よって,まだまだこれらの違いは明らかにされていないだけという可能性は残っています.

しかしながら私としては,上記のようないくつかの知見や,私自身の語感から考えても,「だろう運転」「かも知れない運転」に特定の意味づけをすることには違和感を持っています.要するに,

何かが飛び出して来るだろう 何も飛び出して来ないかも知れない
このまま行けば赤信号になるだろう このまま行けば青信号のままかも知れない
路上に何か落ちているだろう 路上には何も落ちていないかも知れない

でも全然おかしくないのです.それを無理矢理,「だろう」を悪者に,「かも知れない」を善玉に仕立て上げてキャッチフレーズ化するのは無理があるように思います.そんな時代劇における勧善懲悪話のようなカビの生えた二分論は本来は必要なく,単に,"「安全だろう」「誰も飛び出して来ないかも知れない」といった漫然運転ではなく,「ブラインドカーブだから注意が必要だろう」「障害物が落ちているかも知れない」という防衛運転を心がけましょう" といった表現をすれば済むと思うのです.

……などと,私が色々とこねくり回さないでも,アンサイクロペディアに素晴らしい記事が既にあります! ぜひ,「かもしれない運転」と「だろう運転」の項目を読んでください :-)

[1] 例えば冒頭の画像に掲げた長野県警の例の (参考文献参照) ほかにも,Web 上だけでも次のような資料がある:
・静岡県警察本部 (2008) 「普通第二種免許に係る届出自動車教習所が行う教習の課程の指定」
 http://www.police.pref.shizuoka.jp/seido/sinsakizyun/kj35-270-12.pdf
・大阪府警察本部 (不明) 「33条6-2-1ハ 普通二輪免許に係る教習の課程の指定(別紙)」
 http://www.police.pref.osaka.jp/01sogo/kouhyo/shinsa/images/19dourokoutsu_s/doko_aa092_2.pdf
・北海道警察本部 (2009) 「交通安全情報」
 http://www.police.pref.hokkaido.jp/info/koutuu/anzen_jyouho/anzen-jyouho210617.html
・茨城県警察本部 (2008) 「交通安全かわら版」
 http://www.pref.ibaraki.jp/kenkei/02_koutsu/01_jikobousi/kawara/document/h20/h20-44.pdf
静岡県警・大阪府警の資料は内容がほとんど同じであり,重複するのでこれ以上挙げないが,ほかにも山形県警でも同様の文書を公開していることを考えると,警察庁の通知などに典拠があり,全国で同じ「審査基準」の文書が作られていると思われる.すなわち,警察が交通行政において '組織的に' この言葉を使用していることが判る. [→ back]
[2] 私の知っている複数の「工場」構内の最高速度表示は 8km/h です.これは絶対に構内で交通事故を起こさないという強い意志のあらわれなのでしょう.逆に言うと,それくらいの速度じゃないと危険は排除出来ないということです.幸い,私の勤務先の構内制限速度は 20km/h ですが... これは徐行速度ってことでしょうね. [→ back]
[3] それに,私が引用していない論文に非常に重要なものがあるかも知れませんし... まぁそこは,別にここで学術論文を書きたい訳ではないってことでご容赦を. [→ back]

参考文献

・菊地 康人 (2000) 「「ようだ」と「らしい」 ──「そうだ」「だろう」との比較も含めて──」 『國語學』 第 51 巻 1 号
・中畠 孝幸 (1990) 「不確かな判断 ──ラシイとヨウダ──」 『三重大学 日本語学文学』 第 1 号
・柏木 成章 (2003) 「「だろう」の意味」 『別科日本語教育 (大東文化大学別科論集)』 第 5 号
・仁田 義雄 (1981) 「可能性・蓋然性を表わす擬似ムード」 『国語と国文学』 第 58 巻 5 号
・野田 尚史 (1984) 「~にちがいない/~かもしれない/~はずだ」 『日本語学』 第 3 巻 10 号
・中畠 孝幸 (1993) 「確かさの度合い ──カモシレナイ・ニチガイナイ──」 『三重大学 日本語学文学』 第 4 号
・寺村 秀夫 (1979) 「ムードの形式と意味 (1) ──概言的報道の表現──」 『文藝言語研究 言語篇』 第 4 号

冒頭の画像は,以下のページより引用
長野県警察本部交通企画課 (2009) 「あなたの街の交通事故 望月警察署管内」 http://www.pref.nagano.jp/police/kouhou/machi/jiko/23mochizuki-j.htm

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Posted at 2009/11/28 00:57:27
イイね!
イイね!
タグ
だろう運転 かもしれない運転 警察
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この記事へのコメント
2009/11/29 00:25:37
いっそのこと、「ブラインドカーブは注意が必要です」「障害物は落ちているものです」のように、もっと直接的な表現にしてしまうのも手かな…って思ってしまいました。危ない事柄を断定的に表現したとして、それが違ったとしても、「何事もなく、よかった!」で済みますものね。
コメントへの返答
2009/11/29 12:46:37
そうだと思います.けれどそうした具体例を例示する表現にすると,全部を挙げ出さないといけなくなってしまうので,それらをひとまとめにした表現を警察は欲しがっているのでしょうね.でも,だからと言って何も罪のない「だろう」を悪者にするのはどうかと思うのです,はい.
2010/04/15 00:03:10
「だろう」と「かもしれない」はこう考えています。
「来るだろう」「来ないだろう」は、どちらも本人の思い込みで、「来る」「来ない」は相手の意思で決まるものです。さらに、「来るだろう」と「来ないだろう」は正反対の意味で、相手がどちらの行動にでるかは予測できないのです。ですから「だろう」はどうみても予測不能なことを自分で勝手に予測するわけで、大きな間違いにつながる危険があると思うのです。
しかし、「来るかもしれない」は、裏を返せば「来ないかもしれない」と同じ意味となり、つまり「来るか来ないか分からない」となります。「かもしれない」は予測不能なことを最初から認識しているので、危険回避の意識が高まるのだと思います。
常日頃、私自身「かもしれない」運転を心がけていますが、これは警察に教わったのではなく、自分の運転の経験のなかから見つけ出したものです。
参考にしていただければ幸いです。


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